kira kira blog

キラキラな感じで 。

スポーツとナショナリズム

新宿のハブで飲もうとしたら、ちょうどラグビーの試合の日に当たったらしく、テレビ中継目当ての客でごった返していた。

「こりゃ無理だ」引っぱったドアノブを即座に押し戻して、仕方なく踵を返す。歩きながら、幼い頃、週に一度の楽しみだったセーラームーンのアニメが野球の試合のせいで放送延期になった時の怒りが再燃する。まただ。またスポーツに阻まれた。セーラームーンの恨みは一生。酒にありつけなかった恨みも一生。怨念は成仏することなく亡霊のように漂い、邂逅するたび私を燻らせる。

赤と白の旗の下、まるで即席カップ麺のようなお手軽さをもって生まれる団結心。サポーター席に日の丸が揺曳する映像が意識へ割って出てきて、やはりスポーツとナショナリズムを切り離すのは難しいのだろうかと思う。大事な試合はテレビにかじりついて応援すること、日本人なら日本チームが勝ったら喜ぶのが当たり前そんな号令を無条件に受け入れて喜ぶことが、観戦を楽しむ上での最適解なのかもしれない。自国が好きで当たり前という最大公約数的な感覚を有する人たちに支えられ、スポーツはまたデカい顔をする。集団の流儀に馴染めばきっと熱狂を分かち合える。けれど、一度根を張ったナショナリズムへの忌避感覚は揺るぎそうになく、だいたい他人の試合観戦に時間をさくのってなんか時間が勿体ないし、あまり関心も持てないんだよなあという気持ちがいつも先行する。

労組に加入していた頃、日の丸にバツ印を付ける系の人間が私の周りを囲んでいた。労組員たちとデモの告知文を作った時のことを今でも思いだす。文章のなかで、”国民”という主語を使おうものなら、その単語は真っ先に削除される。なぜ「国」でくくろうとするのか、非国民は参画できないのか、無意識的な排他性を指摘する声が飛び交い、最終的に”国民”は、他の言葉へと着地する。

一連のやりとりに、頬をはたかれたような心持ちになった。自分の中に存在しなかった概念。具材同士をくっつけようと小麦粉を練り込むように、文をつなぐ接続詞的用途でしか使ってこなかった“国民“が、他の誰かの参画を阻害するなんて、思いも寄らなかった。想像が及ばなかった。その事実が、いかに自分が差別や迫害に無頓着なまま蚊帳の内側でぬくぬくと過ごしてきたかの証左にも思え、自己嫌悪する。誰も置き去りにしないこと。彼らから伝播した感覚は根を張り巣を作り、多分このまま永住する。

ナショナリズムに判断を狂わされた人たちを見ていると、愛国心は一時的な高揚感こそ与えるが、基本的には毒なのだろうと気付かされる。Twitterを見ればわかりやすい。目も当てられないような差別発言を繰り返す人たちは大抵日の丸アイコンだし、命からがら日本へ逃れてきた難民に冷酷極まりない入管法改悪を当てがったのも”保守”を自称していた人たちじゃないか。国家という大枠にとらわれるあまり、彼らのなかで人一人分の命の質量が軽減されてしまうのかもしれない。

「その髪の色、日本人じゃないよね」  

「よく見たら眼の色まで茶色い。日本人なら黒髪が普通だよ」 

「変な色」

小学生の頃、クラスの子から向けられた言葉が時折脳裏に蘇ることがある。私だって常に蚊帳の内側だったわけじゃない。幸か不幸か、私がナショナリズムに侵食されきらずに済んだのは、こうして蔑まれた経験があるからかもしれない。どこの国籍の人間と見られようが別に構わなかったが、同い年の子たちから爪弾きにされたことだけが恥ずかしかったかな。

同級生たちが私に優しくなる頃、入れ替わるように、今度は学校が地毛証明書を求めてくるようになった。

「本当にお前、染めてないのか?」親に書いてもらった証明書を提出すると、生活指導の先生が叫んだ。疑われるんじゃ証明書の意味がないな。そこまで明るい髪色だとは思わないけど、他人からみたら派手にうつるのだろうか。

先生からひととおり頭髪チェックを受けた後、「髪が痛むからドライヤーは使いすぎないように」と言われようやく帰された。

なぜ、中年太り気味で、自分よりも明らかに不細工な人間から、見た目のことでくだくだと説教されなきゃならないのだろう。それにドライヤーを使わず濡れたまま放置する方が髪は痛むし、教師のくせに情弱すぎじゃないだろうか、と心の中の悪態がいつまでも止まらなかった。

理不尽な校則は現在でもなくならず、いまだ地毛証明書を求める学校もあると聞く。むしろ、私が学生の頃よりも悪化傾向にあるのだとか。以前、教師が頭髪の明るい生徒の髪の毛に黒いスプレーを振りかけたという事件を記事で目にした。とても他人事とは思えず、被害を受けた生徒がトラウマになっていないか心配だし、胸が痛くなった。人権侵害。大人になった今ならスムーズにその四文字を当てがうことができる。子供のときはそんな知恵もなかった。

愛国心を抱くのも日本人らしいものを好きでいるのも個人の自由。だから好き好きやってくれればいいと思う。けれど、こちらのことはほっといて欲しいと、切に願っている。