kira kira blog

キラキラな感じで 。

新年に

年末に風邪を引いてしまった。風邪を家族にうつしたらマズイなあと思いながらも、ちょうど元旦のお昼時間に叔父と叔母が家を訪ねてきたため、空腹には抗えず叔母二人と伯父の四人でお節料理を食べることになった。念の為、取り箸を使って、重箱から皿へ自分の食べる分だけを取り分けていく。

スパークリングワインと赤ワインと体調の悪さが入り混じってまあまあ酔っ払い始めた頃、前後の脈絡は覚えてないが、私の弟夫婦が飼っているウサギの話題になり、

「この間、あの子の家遊びに行ったけど、一階のほとんどがウサギに占領されていたわよ」と年上の方の叔母が呆れたように言った。

一階を占領というのは少し大袈裟なんじゃないかと笑ったが、確かに弟の家に行ったときの記憶を辿るとウサギを自由に遊ばせるためのサークルはゆうに1階フロアの8割程を占めていたっけ。

「まさかあの子が動物好きになるとはねえ」と感心しながら「まあ、小さい頃はうちの両親が動物飼うのを許さなかったから、飼いたくても飼えなかったことに対する反動もあるのかもしれないね」と付け加える。

すると年上の叔母の方が目を丸くして、「え、そんなことないでしょう。あなたの両親だって犬を飼っていたじゃない」と言うので、今度は私が驚く番だった。

両親が犬を飼う?それは、あり得ない。むしろ彼らは動物嫌いだったはず。少なくとも、私に犬と過ごした記憶はない。

「あ、でもそれってまだあなたが生まれる前の話じゃないっけ?」と別の叔母が言ったので、であれば知らないはずだと一旦は納得するも、あれほどまでに動物を飼うことを忌避していた両親が犬を飼っていたとはにわかに信じがたかった。飼っていたのが事実だとすると、愛犬の写真の一枚や二枚残っていそうなものだけど、そういった類のものは一度も目にしたことがなかった。

「あ、そうか。確か」

叔母の次の言葉に私は愕然とした。

「あなたが産まれてくるからって、殺処分しちゃったのよ」 

「殺処分?」と、つい予定外の非難めいた声を上げてしまう。

ペットを飼うなら最期まで責任を持つこと、安易な気持ちで飼い始めないで、責任取れない飼い主は人としてあり得ない。ツイートのようなナレーションが次々と脳内に自動再生されては炎上の様相を呈していき、最近Twitterを離れてはいるものの、まあまあなツイ廃であることを自覚する。

「なんで私が生まれるからってそんなことしたんだろう」

努めて冷静に聞いたつもりでも、少し詰問調になってしまったかもしれない。そして、聞きながらも、あの神経質かつ保守的な父が、娘への危害になり得るものを予め全て除去するためにそうしたに違いないという確信を得ていく。犬が子に噛み付いたら。子が動物アレルギーだったら。想定し得る危険要因に際限はない。雑草一つない舗装された道を我が子に歩ませたがる人だった。ほとんどそれを使命にしていたと言ってもいい。子供のためならと、突拍子もない決意を下すことが容易に想像できる。

「いや、殺処分はさすがにしていないんじゃないかな。きっと誰か他の人に引き取ってもらっただけだよ」私の心の内奥を察してか、年下の方の叔母が少し焦るようにアシストする。

私も半ば自分に言い聞かせるように、「そうだよね、さすがに動物愛護法とかあるんだし、きっと多分できないよ、そんなこと」と言葉を濁す。

その犬が誰にどう引き取られたのかを、結局誰も口にしない。知らないのだろう。事実がどうであれ、今更年老いた両親に剣突をくわせる気はない。ただ、当たり前だけど、家族とはいえ全然考え方も違う人間なんだな、とだけ思った。当たり前だが、私が産まれたせいで犬が、という考え方を、私はしない。

委細はきっと知らなくていい。また一つ知るべきでないことが増えてしまった新年だった。