kira kira blog

キラキラな感じで 。

テストの悪夢

定期テストの夢をいまだによく見る。無意識的なストレスから派生したであろうそれは、大概の場合悪夢であり、事実とフィクションがないまぜになったものだ。とりわけ高校時代の夢が多いのは、当時、広範な出題範囲に悩まされてきたせいなのだろうか。

母校の進学クラスの授業カリキュラムは少々特殊で、端的にいえば進みが早かった。速度に比例して、テストの範囲もその分広くなる。数学1A IIBと、3年かけて習得するはずの英文法は、高校1年生の内に全て習い終え、2年生以降はセンター試験や私大などの過去問に着手するという流れだ。

「付いてこられない奴は容赦なくおいていく」まだ入学初日だというのに、学年主任は早々切り捨てるように宣言した。腹の立つ態度かつ厨二病っぽい台詞だが間に受けやすい10代の子供たちを動揺させるには充分な脅しだったし、実際みんなビビった。

「今日は授業やらないから、チャイムなるまで各自自習をするように」そう言い残して、主任は部屋から去っていった。突如舞い降りたスペシャルフリーな時間にも関わらず、まわりを見渡すと隣の席同士雑談するとか自己紹介しあうとか一切なく、配布されたばかりの問題集にみんな無言で取り組んでいる。嘆息した。だから進学クラスは嫌だったのだ。けれど、学費のスポンサー、つまりは両親が普通科を許してくれない。公立校に落ち、学費の高い私立高校へ入学したのだから、つべこべ言える権利など私にはなかった。ふと母の使っている化粧水のことが頭に浮かぶ。それはおそらくドラッグストアでも最安値で売られていて、アンチエイジングには心許ない代物だった。私の学費を捻出するためには、そういう物にも頼らざるを得なかったのかもしれない。母の老いる速度が早かったとしたら、それは私のせいということになるのだろうか。高価な制服の重みが負債として身体全体へのしかかる。拭い切れない後ろめたみたいなものがそこにぎゅっと濃縮されていて、希釈の術を私は知らない。

ずっとこの調子だったら先が思いやられるな、と思う間も、だれもシャーペンのカリカリを止めようとはしなかった。きっと彼らも同じような重荷を背負っている違いない。

授業のコマは多く、0限目から7限目まであった。時間にして、朝8時から夕方の17時までだったか17時30までかは忘れたが、日が暮れる直前までみっちりと授業を受ける。そのせいで、部活動に参加できる時間はほんの僅か残されていない。全く参加できないわけではないのだが、普通科クラスの人間がフルタイムで活動している中、終了間際に短時間だけ混ざるのも気が引けるからか、クラスメイトの9割は帰宅部だった。部活動は普通科とスポーツ科だけの特権なのだ。

0時限とは朝礼前に行う30分間授業のことで、英語と数学の授業を日替わりで受ける。朝8時開始のそれに遅刻すると、遅刻1回につき、定期テストの点数からマイナス1点されるというルールが存在した。英語の授業に遅れると英語のテストから、数学の授業に遅れると数学のテストから点数がそれぞれさっ引かれた。

0限と朝礼がおわると、今度は英作文の小テストが待ち構えている。参考書に書かれた5つの英文をあらかじめ丸々暗記し、その文章を解答用紙へ一字一句間違えず記述するというものだ。及第点は全問正解のみ。一文字、いや、句読点の位置が少しでもずれるとそれは不正解とみなされ、ペナルティが課される。文法的に誤りなく、充分に意の伝わる英作文を完遂させても、お手本通りの文章を記述しないと不合格ということだ。馬鹿げているが、出題者へ抗弁するだけの胆力は誰も持ち合わせてはいなかった。

ペナルティは出題された英文5つを、1文につき20回書き写すというもの。つまり5✖️20で100つの英文を書く。提出期限は当日中で、提出が遅れた日数分だけペナルティの量が加算されていく。ちなみに病欠で遅延した場合もペナルティは積み重なる。この罰のおかげかクラスメイトのほとんどが2本のペンを片手に握り、同時に2行の文章を書くという技術習得していた。強者は3本のペンで3つの文章を同時に書いていたと聞く。

と、ここまで書きながら当時を振り返ると、高校はわりと厳しい環境だったとおもう。スパルタなわりに、緊張で脳味噌が萎縮し続けていたせいか学んだことはほぼ忘れてしまった。学校生活でもっと辛いことはあったが、比較的ライトなことだけ書いてみた。書きたくないほど辛いことは、面白くないしここには記述しない。

夢の中の私はいつも試験勉強が間に合っていない状態で、テストの日を迎えている。いつになったらこの冷や汗から解放されるのだろう。

良い学校と、良い会社に入ること。出来ない人間は社会に出てからふるいにかけられるから、常に頑張り続けなればならない。学生時代は、そんな新自由主義的な言葉にいつも心を掻き乱され急かされてきた。10代そこらの子供をそんな風に追い詰めちゃならないのだと、今ではわかる。けれど、社会構造がそうさせている。

私は誰も追い詰めたくない。連鎖に加担したくない。

だから子は持たないと決めた。元々欲しくはなかったが、積極的な意思へと転化したのも高校の頃だった。

そして、処置した。私の体内にはわずか32mm程度の黄体ホルモン放出システムが埋め込まれている。装置が順調に作動し続ければ、私の身に生は宿らない。女を産む機械としか思わない人間たちからすれば悲鳴ものだろうが、彼らの展望に添うよりは自分の意思を貫きたかった。

今この身が手繰り寄せられるのは死だけだ。勿論、ピリオドの位置だって出来る限りは遠ざけたいものだけど。