kira kira blog

キラキラな感じで 。

トレモロし続けていたフリック入力

日本を取り戻す、取りもろす、取れ漏ろす。一年前に死んだ男の演説。どんなに忌み嫌おうとも彼の滑舌の悪さまで笑う気になれないのは、それ自体は罪ではないし生来のものかもしれないからだよなと思う。母音が不明瞭なため、言葉の輪郭が活用形のように変化し、耳朶へ残ったのは、トレモロす。〝掴み損ねた何か”を希求しているかのように虚しく響くが、そう連呼しているうちは手中におさめたとしても、こぼれ落ち続けることだろう。こちらとしてはそのほうが都合良く、偏狭なナショナリズムに塗れた青写真は青写真のまま、一ミリ足りとも実現して欲しくない。
語感のユニークさにつられ、記憶が再燃する。解析度の低いこの脳みそは現在進行形で大切な何かを掴み損ねているに違いなかった。
 直近だとそれはフリック入力だった。
 つい最近まで私はフリック入力を知らなかったのだ。それはいつから存在していましたか?スマホが普及された時からだよ、と知人が教えてくれた。なるほど。これは完全にトレモロし案件だ。
なぜ気づけなかったのか。端緒はいくらでも転がっていたというのに。思えば、同僚のスマホによる文字作成速度は私の2倍は早かったし、その速度の差を生み出す要因について考えあぐねていたが、部内の簡単な伝達事項については後輩にショートメールの作成を任せることでやり過ごしていた。ひきかえ、私のスマホ操作はあまりにも遅く、会社スマホにメールが届いたとしても返信はPCで行うという始末だった。「り」や「おけ」で済む間柄なら良いが、全てがそうとはいかない。文字作成にはいちいちストレスが伴い、挙げ句の果てにスマホ用のキーボードを購入するに至った。でも、これテーブルがなきゃ広げられないし、鞄のなかに入れるとかさばるよなあ。いつしかキーボードは置き去りにされ、母音が”お”の文字についてはタップを5回する日々が続いた。
 で、やっと出会った。フリック入力できるorできないという議論をネット上で目にし、そもそもできるできないの前に、それは何?という疑問にぶち当たったのだ。ワットイズディス?議題の中心にあがるキーワードを検索した。そして知った。
 たとえば、「あ」の文字を長押しする。すると、見たことのない謎の十字キーが浮かぶ。十字キーの中心と上下左右にはそれぞれ文字があり、「あ」を起点に、9時の方向から時計回りに「いうえお」の母音が順に取り囲む。あとは打ちたい文字の方向へ指をスライドさせればよい。おそるおそる下方向へ指を擦り、瞠目した。タップなしに即座に「お」が、打てた。打ててしまった。
 なんてことはなかった。長年の疑問が氷解する。みんなこうしていただけなんだ。なあんだ、これなら早く打てるじゃん。
ちなみに、長押しして十字キーの出現を待たずとも、指をスライドさせるだけでフリック入力できると知ったのは、さらに後になってのことだった。フリック入力をマスターするまでには約3ヶ月を要した。長かった。

寒がりの不機嫌

軽装で外に出たためか、肌寒さを感じている。いつも着ている裏アルミ加工のモコモコな登山用コートではなく、それよりワンランク薄手なキャラメル色の冬コートを羽織っている。不恰好な見た目のレッグウォーマーを今日は装着せず、指の可動領域を狭めてしまう造りの手袋もカバンの奥へとおしやった。こうして一時の快適さと見映えのため、保温性の高い衣装を削ぎ落としたのがそもそもの間違えだったと気づいた時、気温は間違いなく降下していた。凍える。本当は、肩凝りの一因であるはずの洗濯頻度低めなこのマフラーも外して首を楽にさせてしまいたいが、さすがに身体が震えるから巻いておこう。

街中には自分よりもだいぶ薄着の人たちが、平然と歩いていて、見ていて羨ましい。彼らの身体感覚と自分のそれとを、こっそりすり替えてしまえたらいいのに。そんな願望が叶うわけもなく、独り寒さに耐え続ける。

コートすら着用していない人間については、一人一人とっ捕まえて詰問したくなる。本当は寒いんですよね?痩せ我慢されてるんですよね。お願いだからそうだと言ってくれ、と殴りかかりたくなるほど昂るが、勿論そんなことはしない。ただただ彼らの寒さ耐性に嫉妬する。外気へさらすことのできる肌面積が広ければ広いほど嫉妬してしまう。あまりにも露出が大胆な人がいると、自然と目で追ってしまう。見たくもない蓮コラをつい眺めてしまうのと同じような感覚だ。寒々しくて、鳥肌が立つ。

と、次の瞬間、近くを通りがかった女性が卒然と叫声をあげた。

「てか、今日、くそ暑いんだけど!」

自分とは逆ベクトルの怒り。噴出口を思わず、見た。コートも、マフラーも、タイツもそこにはなかった。

 

大阪食道楽の旅に国家権力とのたわむれを添えて

「これ、やりな」

PCR検査キットを連れに投げ渡した。全国旅行支援の申し込みの為だった。
新型コロナワクチン接種を私は3回目どころかすでに4回済ませていたというのに、連れはまだ2回しか打っていなかった。まあ、私一人分の旅費は安くなるわけだし良しとしようと考えたのも束の間、旅の同行者のうち一人でも条件を満たさない者がいると芋づる先にグループ全員が割引対象外になるのだと判明する。

どうしよう。ワクチンの予約は今更どう考えても間に合わないし、と頭を悩ませていたとき、棚の奥底に眠るPCR検査キットの存在を思い出したのだった。

後日、検査センターからメールが届いたが、「結果は陰性でした」という一文だけで、医療機関の署名らしきものは何も記載されていない。こんな簡素な通知文だけで、割引は適用されるのだろうかと不安になるが、もうこれで行くしかない。

それにしてもこのキャンペーン、うまいこと同調圧力をかける仕組みになっている。PCR?そんな金のかかるもんじゃなくてワクチンぶち込んでこいやオラ。お前のせいで割引になんねーだろ。などと罵声を浴びせられ、今日も震えている人間がいるに違いない。副反応が生じかねないワクチンよりは比較的良心的に思えたPCR案だって、よくよく考えるとハラスメントと紙一重ではないか。目先の利益のためやりなくもない身体検査を促すなんて、本来してはならない愚行だ。幸い、連れは嫌がる様子もなく応じてくれたが、本音のところはわからない。

そう、賛否両論ある旅行割について、私は紛れもなく否の側だった。コロナ感染拡大の要因になりかねないし、恩恵を受ける範囲が限定的すぎる。支援ならば、旅に出るゆとりのない人間にも行き届かせるべきではないか。ついでに不公平な政策つながりでいうと、ふるさと納税にも反対している。早よなくせという感じだが、在る間は利用する。制度に反対することとそれを活用することは、必ずしも背反するわけではない。使うからとて、なにも魂までは売らなくていい。

ぷらっとこだま」という格安の移動手段があることも旅行前日に知り、慌てて申し込んだ。安くなる代わりに、大阪までの乗車時間が長くなるらしいが、むしろ大歓迎だ。新幹線で酒を飲む時間はある程度、確保したほうがいい。旅行前日だというのに、会社の飲み会に参加していた私は、酔いながら飲みの席でふらっとの申し込み手続きをした。クレジットカードを財布から取り出し、申し込みフォームへ番号を入力しているところを先輩に見つかり、おい、飲み会中になにコソコソ携帯いじってんだ会話に参加しろという横やりが入るが、いやチケ発なんでこれだけは取らせてくださいとあたかもライブのチケットをとっている風を装い突っぱね、締切時間1時間前というタイミングで席を確保。本当に何から何までギリギリだった。ちなみに旅行に行くことは、会社の人間には内緒だ。

そして、大阪へ旅立った。連れと友人の3人で、まず新大阪の看板を背景に写真撮影する。天気もいいし、幸先の良いスタート。
3人いればその胃袋の体積分、色んな食べ物にありつけそう。今回の旅を食い道楽の旅と決めていた。かみしめたくなるような記憶はいつだって、美味しい食べ物で形成されている。たこ焼きにかすうどんに肉吸いに串カツにどて焼きにおでんに鶴橋のキムチ。ああ、全部、喰う。
初手はたこ焼き。数ヶ月間たこ焼き禁止令を自らに課し、ストイック生活を極めてきたが、本日解禁。
ぷらぷらと寄り道しつつ、まずは狙っていた最初の一件目で6個入りのやつを一つ買う。お店の強面のお兄さんに緊張しながら小銭を渡すと、素敵な笑顔をかえしてくれた。たこ焼きを頬張ると、思いっきり高温の生地に歯と舌を突っ込んでしまい、粘膜が悲鳴をあげる。熱すぎる!けど、んまいじゃんコレ。何これ、美味しい美味しい。生地がドロドロと口内で溶けていき、蛸の弾力を感じる。一人2個ずつきっちり分けて消化していく。
たこ焼き屋を2件食べ歩きしたあと、次は店に入り串カツとどて焼きを食べた。全部んまい。串カツにかじりついた頃には膨満感を覚え始めた。
仲間一人とバイバイすると、そろそろチェックインせねばと、連れと宿へ向かう。遂に旅行割申請の時。フロントで書類やら身分証やらを求められ、次々と提示していく。私のワクチン接種証明はなんなく受理された。が、例のPCR結果のメール通知を見せた次の瞬間、受付係が顔を曇らせる。そりゃそうだ。誰でも捏造できそうな簡素な文章にすぎないのだから。念の為、検査キット送付先の医療機関名も告げると、受付の顔の緊張がやっと溶け、「この医療機関の検査キットを使用されたんですね」と事務手続きをはじめる。そして、晴れて宿泊料40%オフの割引と、2人で8000円分のクーポンを獲得した。ああ、無事に済んで良かった。部屋へ案内されると、すぐに床へ荷物を置いて身体を楽にする。旅行では極力荷物を持たないようにしている。スーツケースは邪魔だし重いから、国内だろうが海外だろうがまず使うことはない。布バッグに2泊3日分の生活必需品を詰めこむ。が、それでも重い。財布携帯カードキー以外を置いて、次の目的地へと向かう。
夜は私たちと同じように大阪へ遠征している高円寺の愉快な人間たちがイベントスペースでDJをやるらしい。大阪きたのに、会うメンツが高円寺の民。それじゃあ高円寺と変わんないじゃん。って会場に足を運んでみると、カラフルで異世界感のある店だった。入口付近には謎に複数のダルマが並べられ、奥に進むとミラーボールや提灯、ドラゴンなどの紙飾りが赤い照明に照らされて中華街のよう。
みんなガヤガヤと何かを喋っている。音とハウリングと会話の洪水で、何を喋っているのか、耳をそばだてても聞き取れない。音楽イベントあるあるだ。以前、APDの知人がコンビニレジでのやりとりに苦労していると言っていたけれど、彼の日常はこんな感じなのだろうかなどと思いを巡らせながら、酒を飲みつつ適当に踊った。適当ダンスもカロリーの消費に役だったのか、お腹が空いてくる。踊りよりもご飯だという頃合いで、一旦夜鳴きそばを求め会場の外に出る。食事を終え、ふたたび舞い戻ってくると、高円寺の人間たちが店を出て外にたむろしていた。どうやら、ひととおりDJが終わったらしい。ほどなくして、愉快な仲間たちがわざわざ高円寺から運んできたという飲兵衛号(酒を販売するための移動式屋台)がそこに加わる。もはや完全なる高円寺。屋台にはやたら電飾が派手なスピーカーが取り付けられていて、そこから知らないお洒落な音楽が流れている。
飲んべえ号を連れてなんば駅周辺を練り歩いたら、きっと大阪の人たちいっぱい酒を買ってくれるだろうなあ。でも、もう真夜中で、私には歩く体力が残されていない。こいつが稼働する頃には私は宿でぐっすり眠っているだろう。心残りだが、街中の反応はあとで愉快な仲間たちの報告をチェックすることにしよう。
閑静な街にガヤガヤと音が響き渡る。電飾がチカチカしていて素敵だったけれど、でもこれ警察の出現不可避だよなあ、と見守っていると、案の定すぐにチャリに乗った制服2人が現れた。早い。いや、ここから交番の距離を考えると遅いくらいなのだろうか。
いつも通り、スマホで撮影をはじめる。念のため、防衛用に。以前、動画で目にした大阪府警による弾圧の様子が脳内再生され、固唾を飲む。西の警察は手強いかもしれない。そういえばデモ申請も東京より大阪の方が通すのが難しいと聞いたことがある。
しかし、存外、彼らの対応はあっさりしたもので、

「近隣住民の方から音がうるさいと苦情がきてますので、もう少し音を下げてください」と柔らかな物腰で言った。

ごもっともな言いぶん。誰かが応じてアンプの音量を絞ると、それ以上咎めてくることはなかった。
帰り際、一人の若い警察が私を振り返り、

「今スマホで動画とっていたやろ。それ全部消しといてな」
抗弁する気はないが、違和感が拭えなくてつい、「後で消すつもりですけど、あれ、でも肖像権ないですよね」
「いや、あるよ」
え、あるの?いや、嘘つくなや、あまりにも真顔でいいはるから一瞬騙されそうになったわ。と、間違いなく地元民にタコ殴りにされるであろう似非関西弁を放つ前に、隣にいた連れが助け船を出した。肖像権はないよ。

それに対しては何も返さず、「あんまり騒がないでな」と警察は穏やかな台詞を残して去って行ってしまった。ちなみに警察が消せと言った動画を後で見返したら、途中で切れていてうまく撮影できていなかった。革命的警戒心が枯渇している証左のような気がしてならない。

警察がわりと緩い。こういうところは少し高円寺と似ているのかも。
結局、一日目はそんな高円寺味を感じて終了した。大阪を感じさせたのは、エスカレーターの立ち位置と、食べ物と、関西弁。明日はもっと大阪を感じるために、移動範囲を広げてみよう。

酔いの果てに

透明な液体を理性とともに飲み込んだその瞬間、わずかな幸福の時間と引き換えに、布団の温もりと安眠を手放すことが確約された。真っ暗な空の下、全身の肌細胞が強制労働へかりだされるような寒さに思わず身を縮こませる。吐き気と寒さと睡眠不足のせいで、多分ピーラーひと削り分の寿命は失われたはず。
酒で楽しんだ代償はでかいなあ。と、気付かされた頃には深夜1時30分をまわっていた。日本酒を飲みすぎるんじゃなかった、寝る危険性が高いと分かっていて空いている座席に座るんじゃなかったなどとにわかに後悔が押し寄せてくる。聞いたことのない駅名を告げるアナウンスで目を覚まし、慌てて電車から降りたものの、最寄駅へ戻る手段などとっくになく、途方に暮れている。

「こんなド田舎で降りなきゃよかった」誰かを敵にまわしそうな恨み節を独りごちてみる。
目の前には人気のないロータリーが広がり、さらに向こうには閑静な住宅街が構えていた。先ほどからタクシーを待っているのだが、車一台すら通りかかる気配がない。家に帰れないのなら、始発まで時間を潰せる漫画喫茶なりファミレスなりを見つけるしかないのだが、寒さをしのげそうな場所が一向に見当たらず、それらを探すためのスマホのバッテリー残量もすでに一桁台というしまつ。ナビ機能を使えばきっとすぐ電池が尽きてしまうだろう。モバイル充電器は重たいからという理由で基本的に携帯していなかった。(モバイルの意味とは)

ヒト科ヒト属とはいえ、その恒常性には限度がある。寒すぎて召されてしまいそう。アーメン、ラーメン。しかし今はラーメンは求めていない。荒廃した胃袋が食物を受け入れるとは考えがたかった。あ、でも麺なしのスープだけは欲しいな、温まりたい。
さらに時間が経過し、ようやく今日はもうタクシーは来ないだろうと悟り始める。こうなるなら電車から降りず、いっそのこと終点まで乗っていた方がよかった。終点はちょっとした観光地で、少なくとも、ここよりは寒さをしのぐことのできる店が連なっていたことだろう。乗車時間を長引かせれば、暖をとりつつ睡眠時間を確保することだってできたはずだ。嘆いてみたところで今更もう遅いのだが。 

「タクシー、こないですね」と、突然背後から声が降りてきた。
人間の声。ふりかえると自分よりも少し若そうな男性がいた。ここの村人だろうかと考え、即座に村人Aさんと名付ける。いや、タクシーを待つということは、ここの村人ではなく、同じく終電を逃したくちかもしれない。
「本当、こないですねえ」と返しながら、この地にきて私ははじめて笑顔になった。気丈に振る舞おうというのもあるが、同じような境遇の人間と会えたことに気持ちが強くなったというのもある。

彼から協力を得るためには、まずは自分の状況を理解してもらう必要があると思い、

「実は、最寄り駅から30分も寝過ごしちゃったんですよ。ここ、全然土地勘ないし、タクシーこないし、どうしようかなって思っていて」と思い切って白状した。

「え、マジですか。それって結構大変じゃないですか」

一緒に笑い飛ばしてくれるという予想に反し、Aさんは若干引き気味な表情をみせる。いや、引かないでよ。どうやら帰路を見失った哀れな人間はどうやら自分だけのようだ。同時に、はて、と気付く。相手の落ち着きぶりから察するに、彼にはまだ帰宅手段が残されているに違いなかった。タクシーを待つくらいだから近距離ではないにせよ、徒歩圏内に自宅があるのだろう。この土地に詳しい人間なのだろうか。
「あの、もしご存じだったら教えて欲しいんですけど、この辺で始発まで時間をつぶせそうな店ってあったりしますかね?」
「ああ、駅の反対側に、カラオケと居酒屋がありますよ」
光明が差した。教えてくれたことに感謝しつつ、もっと早く知りたかったとも思う。
「本当ですか、それって駅の近くですかね」「ええ、すぐ近くにありますよ」「おぉ、マジですか。それならナビ使わなくて済みそう。最初から反対側に降りていればよかったです」「はは、そうですね。こっち側は何もないから。あの道から、向こう側にまわれば、すぐに見つかると思いますよ」
礼を述べて私はそそくさと駅の反対側へと回った。RPGゲームだと、村人から情報収集するのは基本中の基本。その鉄則にならって良かった。まだ一人としか会話していないけど。話の展開は早いにこしたことはない。私は千鳥足でかけぬけた。ぐるりと小道をまわると、古ぼけた看板のカラオケ店とチェーン店系の居酒屋が視界に浮上する。文明開化は駅の反対側に広がっていた。体感温度が1度上昇する。
本日のシェルターは、カラオケではなく、居酒屋へ定めることにした。そういや私がここへたどりついたそもそもの要因って酒じゃなかったっけ。この期に及んで居酒屋を選ぶのって人としてどうなんだろうなどとうだうだ考えつつ全国チェーン店らしきその扉をあけた。いらっしゃいませ。店内から威勢の良い声が聞こえる。威勢のよさに後押しされ、恥をしのいで切実な質問をぶつけてみた。
「あの、ここって何時まで営業してますか。始発までやってたりしますかね?」
深夜の時間帯、女性が一人で居酒屋の暖簾をくぐり、営業時間を尋ねることの意味を店員さんもきっと察知してくれたのだろう。莞爾として、「はい、始発の30分前まででしたら営業していますよ」
本日二度目の、助かったという実感が湧く。ありがたく閉店ギリギリの時間まで居させてもらうことにしよう。正確な閉店時間を確認したあと、仕切りのある個室へと通された。仮眠をとるには好都合な部屋のつくり。しかし仕切られているとはいえ、堂々と寝っ転がっていたら、店側はあまりいい顔しないだろう。座りながらうまく仮眠を取ろう。
お腹も空いていないし、酒も飲みたくなかった。けれど、何も注文しないわけにはいかないので、メニュー表を開いてみると、ボージョレヌーボーがあった。ああ、今年まだ飲んでいないな。見知らぬ土地で心細い思いをしているのだから、安易にこういった商業主義的なキャンペーンにのっかってみるのもおつじゃないかね。と、呼び出しボタンを押し、ボージョレヌーボーとついでに胃に優しそうな雑炊をオーダーする。
飲み物はすぐに運ばれてきた。それはとても若い味がした。

首をもたげながら、何度か夢をみた気がする。寝心地はあまりよくない。浅い夢が途切れ途切れに続いていて、身体は休まらない。でも全く眠らないよりはマシだろう。
夢とうつつを行き来していると、賑やかなグループが来店してきた。こんな深夜に来客か。といってもスマホの電源は切ってるし、正確な時間なんて分からないけれど。彼らも終電を失ったのだろうか。声から察するに、女性2名、男性1名という組み合わせのよう。私の個室の近くに、彼らは着席したようだ。
酒がスムーズに運ばれてきたのか、すぐにカンパーイという明るい発声が聞こえ、宴がはじまった。賑やかな客は良い、陽気さは尊い。こちらの気も紛れるし他人の会話は暇つぶしにもなる。
最初は談笑していた彼らだった。しかし、その明るさが持続することはなかった。
「こんな仕事やだよ。私もう疲れちゃった」と、女性の声。
「そうだよね、辛いよね、もう無理しない方がいい」と心配そうに返す男性の声。
「お父さんにもこの仕事やめたいって言った。でもやめるなって。私体力がもたないの、とにかく休みたいのに」
会話から察するに、水商売のキャスト2人とボーイ1人という組み合わせだろうか。お父さんとは、実父ではなく勤め先のオーナー、もしくは店長といったところか。一人の女性が涙声で喋り続け、別のもう一人の女性と男性が彼女の身を案じる、そんな会話が続いている。泣いている女性の日本語は少々ぎこちなく、海外からの出稼ぎかと想像する。
辛い。なぜ深夜の居酒屋で寂しく眠気と戦いながら、飲みたくもないワインと食べたくもない雑炊を口に含み、見知らぬ女性の辛い労働話を聞いて、気落ちしなくてはならないのだろう。

けれど一番しんどいのは泣き続けている女性だろう。仕事が辛い、健康状態が不安だ、辞めたい。そんな断片的な言葉を耳で拾いながら、彼女が理不尽な環境から一刻も早く逃れてくれることを切に願う。詳しい事情は知らないけれど、彼女がちゃんと逃げ場所を見つけてくれるかが気がかりだ。他の同僚二人も大丈夫なのだろうか。

会話に触発され、労組員だった頃に出会った人たちの顔や、団交や争議などの記憶が、走馬灯のように流れだした。全ての労働は茶番だ。会議室で誰かが放った金言が蘇る。頼もしすぎる言葉に会議の場が沸いた。そうそうあれはおもろかった。いつもこうして軽く笑い飛ばせれば良いのにな。けれど笑い飛ばすには、労働者の生活ってあまりにも雇用者に掌握されすぎている。まあ雇用者は雇用者で大変なんだろうけどさ。涙を流しながら労働相談に訪れた複数の顔が思い浮かぶ。なぜ人は労働ごときに追い詰められなくてはならないのだろう。

結局三人組は一時間も店にいなかったんじゃないかとおもう。しんみりとした空気を残しつつ、店の外へと出て行った。

店内が静まり、再びウトウトとしていると、ふすまをノックする音が聞こえた。「はい」「失礼いたします。ラストオーダーの時間ですが、何かご注文はございますか」

もう少し場所代払おうかという気になった私は、「じゃあ、アイスティーを一杯だけ」
営業時間がもうすぐ終わる。それなのに今更ボージョレヌーボーのツケがまわってきたのか、にわかに吐き気が込み上がってきた。チェイサーを頼んで正解だった。が、アイスティーよりも吐き気の方が早く、観念して洗面所へと向かう。鍵をがちゃがちゃと乱暴にかけ、洋式トイレの蓋をあけ、横隔膜の痙攣に身を任せるがままに嘔吐した。

自然と涙が込み上げてくる。馬鹿だなあ。本当に馬鹿。日本酒で懲りたんじゃないのか。アルコールと共に後悔が身体中を巡る。
先が思いやられた。これから店を出たら始発電車がくるまでの間、再び厳しい寒さを耐え抜かなければならない。体調を整えるのなら今のうちだろうと口を開けたが、胃が空っぽになったのかもう何も吐くことができなかった。
手を洗い、口を軽くゆすいだ後、何食わぬ顔で席へと戻ると、机にアイスティーが置かれていた。一口だけ含んでみる。気を遣って注文したものの、かえって店員のグラスを洗うという手間を増やしてしまっただろうか。

時刻確認のためスマートフォンの電源ボタンを長押しした。もう電池残量は使い切ってしまっていいだろう。麻痺したままの脳でこれからの段取りについて考える。一刻も早く始発電車にこの身を運ばせてしまおう。電車に乗ったら、今度は寝過ごさないよう気をつけること。最寄り駅についたら自転車には乗らずにタクシーを拾うことにしよう。家についたらすぐにシャワーを浴び、半乾きの髪のままベッドへダイブ。あ、お腹が途中ですくだろうから、事前にコンビニで朝ご飯でも調達した方がいいのだろうか。寝てる途中水分が欲しくなるだろうから、枕元に水を用意しておくのも忘れないようにしよう。
そして、もう二度とこんなところには来るものかと強く心に誓う。罰当たりな誓いを立てつつも、今日この地で出会った人達の幸福を願った。村人さん店員さん深夜来客三人組に幸あれ。二度と会うことないけど、まあ会えて良かったと思うことにしよう。
弱々しく起動したスマートフォンに時間が表示された。さまざまな人の助けにより温存した体力と気力をフル活用し帰宅すべく、約10分後、この店をあとにする。

某宗教団体の映画鑑賞

統一教会の話題で世間が賑わっているのに触発され、某宗教団体の映画、『神○の法』を観に行こうとユウリさんから声をかけられたときのことを思い出す。遠い昔の話だ。振り返るとこのときの映画鑑賞が新興宗教に関する唯一の思い出かもしれない。

他に誰が来るのかと確認すると、浮遊ちゃんと岩田さんの参加は決まっているようで、彼らと久々に会えることが嬉しかったし、新興宗教がらみの映画という物珍しさにつられて私も二つ返事でOKをだした。 
(もう一人、Mさんを誘ってもいいかな?)とユウリさんから追伸メールがあり、(勿論です)
Mさんとはユウリさんの意中の女性で、確か一度だけ、共通の友人同士の飲み会でお会いしたことがある。細くて背の高い、聡明そうな美人さんだった。真面目そうにみえた彼女が、我々の中学生並みの悪ノリに付き合ってくれることは意外だったし、不真面目かつ物見遊山的な行動には忌避感を抱きそうなものだけど、でもまあ、変人のユウリさんが惚れ込むような人だしきっと大丈夫なんだろうと、その時は勝手な信頼をおいた。
当日、待ち合わせ場所の渋谷ハチ公前に着くと、すでにユウリさんと岩田さんがいた。
 「エル・○ンターレ
 「エル・○ンターレ
悪ノリに拍車をかける符丁。今日の合い言葉はこれで決まりだ。
「あれ、Mさんは?」
てっきりユウリさんと一緒に来るものかと思っていたのだが、姿が見当たらない。
「それがさ、今日観るのが幸○の科学の映画ということがバレて、怒らせちゃったみたいで...」

唖然とした。「事前にどんな映画かしらせてなかったんですか?」
ユウリさんの悪い癖だ。彼には人を試したり、相手の反応を愉しむようなきらいがある。今日もMさんの動揺させ、ほくそ笑む計らいだったのかもしれない。
「元々なんて言って誘っていたんですか?」
「んーと、エヴァンゲリオンみたいな映画観るけど、行く?って」
「なんで騙して連れてこようとするんですか」

「いや、別に言わなかっただけで騙したわけじゃないし」

仔細を伝えていないのなら同じことだ、少し調べればバレるような嘘をなぜつくのだろう。過去に何度か聞かされてきたユウリさんとMさんの喧嘩にまつわる話から察するに、彼らがよく行動を共にしているのにも関わらずいまいち関係性が煮え切らずにいるのは、ユウリさんのおちょくり癖のせいだろうと踏んでいた。どこまでの悪ふざけなら許容範囲なのか、試され続けるMさんへにわかに同情心が芽生える。
「ところで、今日荷物多くない?」岩田さんがユウリさんの鞄を指差して言った。確かに鞄が膨張している。
「ああ、小型トラメガが入っているんだよ」
「なぜ、トラメガ」
「まさか上映を妨害しようとしてるんじゃ」

館内でトラメガを使用すれば、警察を呼ばれるのは自明だが、彼ならやりかねない。もしそうなった時は他人のフリをして我先に逃げようと、心に決める。
「いや、映画はじまるまで暇な時間あったらそこら辺で街宣でもしようと思ってさ。なんか喋る?」 

「喋りません」
「上映までそんなに時間ないよ」

「どうせ真面目にみないでしょ、ちょっとくらい遅れても、、」

「ほら、浮遊ちゃんも来たし」
岩田さんの目線を追うと、その通り浮遊ちゃんがいた。
長い黒髪を手で整えながら、特に焦る様子もなく、「遅れてすみません」

待ち合わせすると、いつも30分近くは遅れてくる浮遊ちゃんだったが、まだ15分程しか経過していなかった。今日は優秀な方だ。
「その服可愛いね」
フリルブラウスと黒いミニスカートという彼女の姿を見て、私は声を弾ませた。最近、SNS希死念慮のようなものを書き込む浮遊ちゃんの精神状態を実のところ心配していた。今日の彼女の顔色は比較的良さそうでほんの少し安堵する。
人数も揃ったので、渋谷東急シネマへ移動をはじめた。
「映画館どのくらい人入るんだろうね」
「うーん、満員御礼とか言っているけど、多分ガラガラじゃないかな」

「やっぱ信者さんしかいないのかな」

「勧誘されたらどうしよう」

「岩田さん、今日は棒で暴れないで下さいね」と、さり気に釘をさす。岩田さんは酔うと得意の棒術で人を襲撃することがあるタチの悪い酒乱。幸い、今日は武器を携帯していないようだし飲酒してきた様子もないが、警戒しておくにこしたことはない。

「大丈夫、今日は棒を持ってきてない」
そんなこんなで歩いているうちに、映画館の入り口前に辿り着き、ユウリさんが3人へ映画のチケットを配布した。
浮遊ちゃんがカバンから財布をおもむろに取りだし「これ、いくらでしたか?」

「道ばたで配ってたやつだからタダ」
道端で配っていたのか。真偽は定かでないが、ユウリさんはそう言ってチケット代の受け取りを拒否した。
映画館へ侵入する。案の定、客席はほぼ空いていて、私たち以外の客は、親子連れ2名が前方に座っているだけだった。子は小学校低学年ほどの年齢だろうか、おそらく母親に連れられて来たのだろう。熱心な信者の可能性があるのはこの中であの母親一人のみということか。
上映がはじまると、私は寝たり起きたりを繰り返した。神々の登場するシーンはCGを多用していて壮麗だった。金かけてるなあ映像面頑張っているな、というより映像以外に頑張るところがないのかと腑に落ちて再び眠りにつく。寄付金の結晶だろうか、と考える私は嫌な女に違いない。途中、女性が鼻をすするような音が聞こえた気がしたが、あの母親が泣いているのだろうか。映画はおそらくクライマックスで、手を替え品を替え台詞をかえ、登場人物の誰かが信仰心の大切さをときつづけている。
「では改めまして、エル・○ンターレ!」
唱和し、ビールジョッキをぶつけ合う。正直映画鑑賞よりこの乾杯の瞬間を待ちわびていた。映画館をでたあと、早々に飲める店を見つけ、ビールやらサワーやらをあおっている。

「途中寝ちゃって。誰か最後までストーリー追えた人いますか?」
「いや、俺も寝たし記憶が怪しい」

「まあ、少なくとも、エヴァみたいな映画でないことだけは理解できましたが」
「左翼ディスあったよね」
「ああ、あったね、9条批判。ポリティカルなシーンはそんなもんだったかな」
「皇帝がわりとイケメンでした」
登場キャラを褒める浮遊ちゃんに私も首肯した。「確かに、ちょいヴィジュアル系っぽい感じ」
「奇跡の神秘体験ってやつはこれからおこるのかね」

この映画をみると例えばリューマチが治るなどの奇跡がおこるというふれこみがあったのだった。
私は自分のこめかみを指で押し、「神秘の力とやらで、ここの悪さもなおしてくれないものかね」

「奇跡を祈ろう、エル.○ンターレ!」
エル○ターレ!一体何回続けるんだろうと思うくらい、乾杯を重ねた。脳みそを使わずに生んだ言葉の堆積。まともに精神年齢を重ねてきた人間ならば聞くに耐えないであろう益体のない会話が続く。下らない。けれど私にとって必要不可欠な息継ぎの時間でもある。

多分、デモに行かなかったら、このメンバーとも出会わなかっただろうなと、人生の分岐点について思いを馳せてみる。趣味も出身も違ければクラスタも異なる人間を束ねたのは間違いなく社会運動だった。運動にいくようになるまで、彼らみたいな変わり者の人間は私の周りには存在しなかった。私がいかに凡庸な人間であるかを思い知らせてくれる。そして安堵させてもくれる。存在し得なかった存在。

運動界隈の人間関係は流動的で、彼らとだっていつまでこうして交流できるかは分からないなと思う。浮遊ちゃんに至っては希死念慮があるし、いつまで一緒にいられることやら。
「同性の友達の少ない人は自殺しやすいみたいですよ」浮遊ちゃんが以前言っていた。

「うちら危ないね」
「はい、だから一緒に自殺しない同盟を組みましょう」
 という流れで、私たちは緩い連帯を結んでいる。しばらくはこの契りに、彼女をこの世につなぎとめておくだけの効力があると願いたい。

「ていうか、さっさとMさんと仲直りした方がいいですよ」
酒がまわってきた頃、私はユウリさんにかみついた。酒は好きだがアルコールに弱く飲むと態度がでかくなりがちなところが私の悪いところだ。
「それは、彼女が許してくれないと難しいな」
「なんとか仲直りしたら、今度は彼女みたいなノンポリにも受け入れて貰えるようなイベント企画しましょうよ」
「別にノンポリってわけじゃないだろうけど。まあ、奇跡がおこればね」
「奇跡なんて起こるわけないじゃないですか。はぐらかすことなくユウリさんがちゃんと彼女と向き合うしかないんだと思いますよ」
そう言いながらも、もし彼が自分の意思をちょろまかさずストレートに伝えるような人間になったらそれはそれで違和感があるなと思う。

「そういえば、結局、トラメガ使いませんでしたね」と浮遊ちゃん。
「これ持って、今からどこか襲撃しにいく?」
「嫌だよ」
「それより今度またみんなでデモやりたいな」私が呟くと、

「本当デモ好きだよね」とユウリさんが呆れた。

政治、運動、稚拙な好奇心。それを全て取り払った世界は、きっと味気がなく窮屈でうだつのあがらない地獄のような日々に違いないだろう。息継ぎできる場所がある。おかげか、今のところすがりたきたくなるような神は存在しない。トラメガで膨張したユウリさんの鞄に目をやりながらそんなことを考えていた。